韓国旅行


2015年10月16日木浦旧日本領事館

木浦の儒達山の中腹にある
旧日本領事館に行きました。

木浦駅から少し歩いていきます。


 
国道1.・2号線の起点記念碑がありました。



記念碑のすぐ後ろにありました。



1897年木浦開港時
同年10月日本領事館が開設されました。
1900年からこの赤レンガが建てられ
1907年まで領事館として使用されました。
1914年から木浦府庁舎
1974年から木浦市立図書館
2009年までは、木浦文化院など
様々な公共施設として使用されました。






1981年に国家史跡として指定されました。


はっきりとは分かりませんが
ソウルナビサイトでは
2013年位まで外観しか見学できなかったようですが
2015年10月に行ったときは
日本統治時代の事が解説された
歴史館になっていました。


旧領事館から見渡せる所に
日本人がたくさん住んでいたそうです。


W2,000(206円)を入口で払いました。





朝鮮時代、木浦には水軍の陣営としての木浦鎮が設置され
従四品(官職の一つ)の萬戸(武官職)が配置されたので
萬戸鎮と呼ばれた。『世宗実録』によると
1439年(世宗21年)に木浦に萬戸鎮が設置されたという。
西南海岸地域の要所を守っていた木浦鎮は
1895年7月15日、軍事制度が近代的に改変されると共に廃止された。





1897年10月1日、釜山、元山、仁川に次ぎ4番目に開港した木浦は
高宗の勅令により開港した最初の港だ。
大韓帝国は木浦とチュンナム浦を追加開港することで関税を増やし
政府財政の拡充を図った。
政府は木浦に務安管理署と木浦海関を設置し
イギリス、ロシア、日本等が領事館の設置を計画したものの
実際に領事館を設置したのは日本だけであった。















務安管理署は1897年に木浦開港と共に設置され
開港場内における外国領事館との円滑な外交及び
通商事務を行った。
1905年の日本の保護条約強制締結で
韓国の外交権がはく奪されると
1906年10月に廃止された。












1910年初め、統監府は大田から木浦までの「湖南線」の路線を確定し
5年間で工事を完成させるという計画を立てた。
ところで、翌年に大田と木浦の両方で始まった工事は
1914年1月11日に完成し、大田‐木浦間の湖南線本線と
裡里(イリ・現 益山)‐群山間の湖南線支線とが開通した。
このように工期を短縮し、3年で湖南線を開通させたのは
当時、全羅南北道産米をより簡単に木浦や群山に運び
日本にまで運送するためであった。



1919年、木浦での独立万歳運動は4月8日と9日に行われた。
4月8日の朝、彼らは永興学校、貞明女学校、木浦公立普通学校
簡易商業学校にそれぞれ駆け込み、生徒たちを率いて街頭に溢れ出た。
約束時間の午前10時になると、
市内の随所から独立万歳という声が上がって
太極旗が翻り檄文が撤かれた。
こうして木浦市街地は瞬く間に人波に覆われた。
このデモで、ソギギョン、パクサンリョルら80人が逮捕され
約40人が保安法と出版法違反で裁判にかけられた。










開港後、木浦にはカトリック教やキリスト教、
日本の神社や仏教等の外来宗教とともに
朝鮮の仏教、天道教、侍天教等も入ってきた。



日本人は彼らの子供のための学校として
木浦公立尋常高等小学校、木浦公立商業専修学校
木浦公立高等女学校等を建てた。


木浦初の病院は、1898年に日本人が建てた公立病院だった。
1906年に日本人の居留民団は民団嘱託病院を建てた。
これは1914年に木浦府の所有になり
木浦府立病院となった。
1909年にアメリカ人医学博士ウィリー・ハミルトン・フォーサイス
(Wiley Hamilton Forsythe)が
フレンチ(富蘭翠)メモリアルの寄付によって
湖南町に建てた病院だ。
1914年、イサンビンが朝鮮人医師として初めて木浦で
野雲堂医院を開業した。
引き続きキムゴンシキが開業したが
まもなく他のところへ移転した。
1921年に野雲堂医院を受け継ぎ
キムミョンジョンがトンア医院を開業した。
この頃も朝鮮人は韓医院をよく利用した。
当時、韓方医は「医生」と呼ばれた。








木浦に初めて人力車を持ち込んだのは
三吉野旅館の主人 笠井で
彼は1911年に埠頭から旅館まで客を運ぶために
人力車を一台持ち込んだとされている。
1930年頃、木浦には都築組、京城組、丸一組の
三つの人力車会社が競合していた。
人力車は自動車が本格的に運行し始めた
1920年代末から、次第に衰退していった。



自動車は1921年に好況期を迎える。
木浦に初めて進出したのは、
丸一自動車部を京町に開設した長野寅太だった。
ついで1925年に山口林蔵の経営する
朝日自動車部が大和町に開業した。
1926年、木浦で共進会が開かれたとき
市内一帯にタクシー制度が導入され
利用率が大幅に増加した。
一方、朝日自動車部は開業とともに
市内20銭均一のバス制度を導入した。



朝鮮総督府は1939年11月、朝鮮人に本来の名前を捨てて
日本式の名字を新たに作り
名前も新たに作ることを強要した。
総督府は創氏をしない場合
児童に対しては学校の入学を許可せず
行政機関であらゆる事務の取り扱いを拒否した。
創氏改名の一次期間の1939年8月10日までに
80.5%の朝鮮人が新しい名前を届け出た。



1936年、新たに就任した南 次郎総監は
朝鮮人を日本人に同化させようとする
皇国臣民化政策」に拍車をかけた。
彼は1938年、朝鮮人学生らに神社参拝を強要したが
プロテスタントの宣教師らが建てた学校である
木浦の貞明女学校と永興学校の学生たちは
宣教師たちの指示に従って参拝しなかった。
そのため、全羅南道は二つの学校に閉校措置をとった。



旧領事館の周りには
このような防空壕跡があります。



中をのぞいてみると









木浦沖の高下島には、人間魚雷艇を隠匿するために
掘っておいた人口トンネルが約20ヵ所ある。
これは米軍の上陸に備えるために
日本が朝鮮人徴兵対象者の中で
乙種受けた人々を動員して作ったものである。
このようなトンネルは、済州島の場合76ヵ所ある。
日本はこの人間魚雷艇を回天と呼んだが
いわば海の神風特攻隊のようなものだった。
木浦付近でこのようなトンネルは
高下島だけではなく務安群の慈恩島
海南群の於仏島などでも発見されている。